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風と緑とあじさいと。―Vayu, Vana, Ajisai ca―

あじさい寺の非公式ブログです。

ピッパラ樹

 

こんにちは。

前回の投稿から、早17日が経過しました。 先負の日って意外と少ないですね。

次の先負の日まで、結構遠いなあ、と思いながら日々を過ごしていました。

 

さて、本日は仏教のお話です!

そもそも仏教とは何なのか、他の宗教とどのような違いがあるのか、ご紹介します。

といっても固くなりすぎず、ゆるく書いていきたいと思います。

 

まず初めに、仏教の開祖は、パーリ語の表記でゴータマ・シッダッタという人です。

紀元前二千年、ゴータマさんは、インドの北部、釈迦族の街であったカピラの郊外ルンビニーという所で生まれました。

もともと人間なんですね!

なぜ郊外なのかと言いますと、マヌ法典によると、当時お産の時は人里離れた郊外に出るという習慣があったためだといわれています。

 

(余談ですが、”Buddha Of Suburbia”(郊外のブッダ)というかっこいい曲がありまして、ぜひ聞いてみてくださいね)

 

王族に生まれたゴータマさんは、教養のある、優しくて多感な青年に育ちます。

しかし、裕福な生活をしながらも、人生の中で感じる無常や苦を前に、日々やりきれない思いを抱えて悩んでおりました。

そしてついに、真理を求めて29歳で出家します。 29歳という年齢について、結構早いなあという印象です。 よほど悲しいこと、辛いことがたくさんあったのかな…?と思ってしまいます。 かなり濃い、29年間だったのではないでしょうか。

出家した後は、色々な師匠の元であらゆる修行を積みました。 いわゆる荒行といわれるような、断食や激しい肉体運動などの修行です。 それらを繰り返したゴータマさんの身体は骨と皮のみとなり、とても痩せ細ってしまったといわれています。

 

そうして出家をしてから足掛け7年が経ったある日、ガヤー地区のナイランダー川で沐浴をしたあとで、一人の少女に出会います。村娘のスジャータです。彼女からおかゆをもらったゴータマさんは、何とかして命を取り留めました。

また、おかゆをもらったことをきっかけとして、過度の快楽が不適切であるのと同様に、過度の苦行にも意味がないと考えるようになります。

そして彼が35歳の時、それまで7年間行ってきた苦行をやめたのです。

 

ゴータマさんはその後、ピッパラ樹という樹の下で座って瞑想に入り、悟りに達してブッダとなりました。

 

ピッパラ樹、かわいい名前です。フフ

ピッパラピッパラ

フフフ

 

この悟りを得るというもの、これができる人は実は1憶年に一人しかいないと言われています。 1憶年、果てしないですね…!

この1億年に1人だけと言われる悟りに達したゴータマさんのように、自分達も悟りを目指そう!ということでお弟子さんたちがゴータマさんのお話をもとに修行に励んだのが仏教の始まりです。

仏教の起源はこんな感じなんですね。遠い遠いインドでのお話でした。

 

先程、ブッダといいましたが、ブッダというのは、サンスクリット語で「目覚めた」という意味の「buddha」に由来します。もともとインドの宗教全般で、優れた修行者や聖者の呼称であったそうです。

仏教という名前もブッダから仏法と呼ばれるようになり、そこから発展して仏教となりました。 英語のBuddhism(仏教)も文字通りbuddhaからですね。

また、お釈迦様というのも聞いたことがあると思います。これは、釈迦族の聖者という意味であるシャカムニという言葉が、中国に伝わりそのままの音で釈迦牟尼とされ、それが簡略化されて釈迦、お釈迦様という呼び名になったといわれています。

つまり、ゴータマ・シッダッタブッダ=お釈迦様、です!

 

さて、ここまでは仏教の起源についてみてきましたが、ブッダはもともと人間だった、という点が非常に大事なところです。

例えば、他のキリスト教イスラム教だとキリストさんやアッラーさんなどの絶対的な神様がいますよね。 神様は勿論、人間ではありません。

これらの宗教は、神様が説く教えを聞いて、守ることが大事とされています。 キリスト教では、きちんと教えを守っていれば、死ぬ時の最後の審判神の国へいくことができる、とされていました。

 

一方、仏教は、ブッダ=絶対的な神様というわけではありません。

先ほど申し上げたようにブッダも昔は一人の人間でした。

つまり、人間はどのように生きていけばよいのか、どうしたら苦しみが無くなるのか、ということについて考え、実践し、先に悟った先輩であるのがブッダです。

そしてそのブッダがおっしゃっていることをもとに、自分たちも悟りを目指そう!というのが仏教で、体験の宗教とも言われています。

そこでは教えを聞いて、自分の中で噛み砕いて、実践してみることが大事とされています。 仏教の目標は、自分自身と向き合って、悟ること、すなわち苦しみから解放されること、なんですね。

そのため、仏教は世界三大宗教の一つと言われていますが、宗教というよりもどちらかといえば実践哲学に近いと思っています。 といっても、哲学としてみると突っ込みどころ満載?でもあるので、哲学的な宗教、という感じで見ていただくのが良いのではないでしょうか。

またお釈迦様は、自分で得た悟りについて周りの人にお話をしましたが、お話といっても、教えを強制しているわけではありません。 あくまでも、悟りの先輩として、他の人も悟れるように修行をお助けしますよ、というスタンスなのです。

この押しつけがましくない感じ、とても好きです。!

修行をするのは自分だからいろいろ考えてやってみなさい、というスタイルが、宗教に馴染みのない人にも受け入れやすかったのではないでしょうか。

 また、その一種のゆるさが、一つのお釈迦様の教えにたいして様々な解釈があることの所以だと思います。

上座部仏教大乗仏教にはじまり、日本の中でも浄土宗、曹洞宗日蓮宗、といった様々な宗派がありますよね。

 すべての始まりは皆、この古代インドのゴータマさんなのでした。

 

しかし、昨今の世の中では、宗教に関してちょっと近寄りがたいなぁ…と思っている方も多いのではないでしょうか。 勿論、色々な人がいらっしゃるので、無理におすすめしたいとはちっとも思いません。

でも、心が弱っているときに宗教の力に頼るのは、決して悪いことではないとも思っています。 「本当に独りになってしまったとき、もう自分には誰もいない、独りぼっちだ…と思うのと、いや、まだ神様、仏様は見てくださっている。と思えるのとでは、全然違うのではないでしょうか。」と、ある方がおっしゃっておりました。

ということで、個人的には、宗教について考えるときは、宗教との距離感や付き合い方が大事なのかなと思っています。 しっかり修行して頑張ろう!という付き合い方もあれば、悩んだときはちょっと人生の先輩に生き方について聞いてみよう、みたいなゆるい付き合い方もあって良いと思います。

 

そういえば、野僧野僧と申しておりますが、野僧もまた、仏教と不思議な距離感を保っている内の一人で、まだ出家しておりません。 すみません。 勿論、お寺に生まれたものとして、宗教とは何か、お寺に求められていることはあるのか、お寺で何ができるのか、といったことをあれこれといつも考えています。

しかしその一方で、心のどこかに、「それ本当に正しいの?その考え方ちょっとどうなの?」みたいな反骨心も0.001ミリ位あるのが正直なところです。

反抗期みたいなものですかね。今はまだ、反抗していきたいと思います。

そして、一気に勉強するのもつまらないですから、宗教に関しては、少しずつ知っていきたいなと思っています。

 

ということで、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

では、本日の仏教のお話はここまでです。

最後まで読んで下さりありがとうございました。

 

合掌。

 

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