こんにちは。
本日は、七夕でございます!
昨年に、「ハンカチ」という葉っぱを書いて以降、
いつもいつも、考えています。
そもそも、お寺の役割というのは、本来であれば、
ですが、昨今では世俗化が進み、人々の宗教意識が希薄化し、
というのが、宗教界のさまざまなところで起こっている、
(それが良いか悪いかは別として)
ところで、あじさい寺も、
空豆和尚の方針としては、
きちんと本来のお寺としての機能を担っていけるように、
という感じなのだそうで、
野僧も、この意見には賛成でございます。
さて、それで冒頭のお話に戻りますが、
実存的な苦しみも含めて、大きな苦しみを抱えている人と、
あれこれと考えていた時、
「するということよりも、あるということの方が大事、doing
と仰ってくださった方が、いらっしゃいました。
野僧はこれ、どういうことじゃろか…としみじみ思っておりまして
目の前に苦しんでいる人がいたら、
つい色々なことをしたくなってしまう、からこそ、
何もしないで、優しく見守るとか、待つとか、
でも、どうしてもdoingしたくなっちゃうよなー、being
それで、「どうしたらいいんだろう?」と考えている時点で、do
そこで、色々考えてちょっと思ったのは、
自分では、何もできなくて申し訳ないと思っていても、相手は、「
となると、beingというのは、目的ではなくて、
あと、もう一つ思ったのは、
doingって、満たされることなさそうだなということです。
何だか、目の前に苦しんでいる人がいて、その人に対して、
何でもかんでも、
そう考えるとやっぱり、doingというのは、
となると、確かに、
目の前で苦しんでいる人がいたとして、
その人の苦しみを本当に理解…という言葉が正しいのか、
自分も一緒に、その苦しみを感じている時、
迂闊にdoingしようとは、思わないかも…ということも、
beingというのは、その苦しみを、一緒に味わう、
そういえば、ゴータマさんも、
苦しんでいる人を見て、心を痛めていらっしゃったのでは…と、
瞑想とか、祈りとかも、beingなのでしょうか。
それに、実際に自分が助けてもらう立場になったことを想像して、
「何もしてくれなくていいよ」
と、思うだろうなぁー…………
と、思いました。
やっぱり、「being」というのは、凄いですね。
色々考えると、「doing」と「being」は、
doingは表面的なことですが、beingはもっと深い、
あと、「being」たるもの、その中心にあるものは、「
それに、「being」の方が大事ということを分かっていても、
あと、誰かの苦しみに寄り添う側の人間にも、きっとまた別の「苦しみ」や「困難」があって、「doing」にすがりたくなるところも、あるんじゃないかなと、思います。
なので、
「being」に徹しようとするのではなくて、
「doing」よりも「being」
きちんと心で理解した上で、寄り添っていくというのが、
そういう心持ちでいるということが、
大事なんじゃないかな?というのが、
今回野僧が思ったことでございました。
それから、そういう意識を持っていると、
これは、いざという時により慎重になれるという面でも、
あと、戦争とか、難民問題とか、
世の中を見渡せばありとあらゆる問題が起こっていて、
なので、「doing」より「being」の方が大事なんだよ、
それに、菩提樹の下で瞑想をしているゴータマさんを拝見して、
何もできないと思って、勝手に孤独を感じて、
ちょっと離れたところに座って、
その苦しみを、一緒に味わう
ということぐらいは、
(自己満足かもしれないですけれども!、)
できるかな?できたらいいなー
と、ちょっとだけ前向きに、考えられるようになりました。
ありがとうございました。
ということで、本日は最近の学びについて、
何だか、問いが深すぎて
野僧が本当に探していたものにはかすりもしなかった、
恵みの雨が降ってきました。
ということで、
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。!
合掌。
編集後記:
こういう自分で勝手に考えを掘り下げていくスタイルで書く文章は
が、
海上の空を飛ぶ理論派なカモメが、
まぁそこまで美しい展開に拘らなくてもいいかな?ということで、
ありがとうございました。