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風と緑とあじさいと。―Vayu, Vana, Ajisai ca―

あじさい寺の非公式ブログです。

もくもく

 

こんにちは。

 

本日は、七夕でございます!

 

昨年に、「ハンカチ」という葉っぱを書いて以降、実存的な苦しみも含めて、大きな苦しみを抱えている人と、どうやって向き合っていけばいいのだろうか…というのが、野僧の個人的なテーマとなっておりまして、

いつもいつも、考えています。

 

そもそも、お寺の役割というのは、本来であれば、世の中の人の苦しみや悲しみに寄り添うこと、なのだそうです。

 

ですが、昨今では世俗化が進み、人々の宗教意識が希薄化し、地域のお寺も観光寺院になってきている…

というのが、宗教界のさまざまなところで起こっている、現象でございます。

(それが良いか悪いかは別として)

 

ところで、あじさい寺も、観光寺院ではないとは言い切れないような感じでございますが、

空豆和尚の方針としては、

きちんと本来のお寺としての機能を担っていけるように、頑張りましょう

という感じなのだそうで、

 

野僧も、この意見には賛成でございます。

 

 

さて、それで冒頭のお話に戻りますが、

実存的な苦しみも含めて、大きな苦しみを抱えている人と、どうやって向き合っていけばいいのだろうか…ということについて

あれこれと考えていた時、

 

「するということよりも、あるということの方が大事、doingよりも、beingの方が大事なんだよ」

と仰ってくださった方が、いらっしゃいました。

 

野僧はこれ、どういうことじゃろか…としみじみ思っておりまして

 

目の前に苦しんでいる人がいたら、

つい色々なことをしたくなってしまう、からこそ、

何もしないで、優しく見守るとか、待つとか、そういうことの方が大事ってことかな?と、思いつつ、

でも、どうしてもdoingしたくなっちゃうよなー、beingに徹するためには、どうしたらいいんだろう?と、思っておりました。

それで、「どうしたらいいんだろう?」と考えている時点で、doingしようとしてるじゃん!と思っては、beingって何なんだ………と、悩んでおりました。

 

そこで、色々考えてちょっと思ったのは、

自分では、何もできなくて申し訳ないと思っていても、相手は、「居てくれるだけでいい」と思ってくれている場合もあると、思うので、doingできなくても、必要以上に自分を責めなくてもいい…ということかな?と、思いました。

となると、beingというのは、目的ではなくて、結果じゃない?と思い、そしたら結局我々は、美しくもがくことしか、できないのだろうか…という感じでございます。

 

あと、もう一つ思ったのは、

doingって、満たされることなさそうだなということです。

何だか、目の前に苦しんでいる人がいて、その人に対して、自分がありとあらゆることをして、尽くしても、もっと何かできることがあるんじゃないかと思い続けて、「尽くし切った」という状態には、一生ならないだろうな…と、思いました。

何でもかんでも、やればいいというもんじゃなさそうだなぁーという感じです。

そう考えるとやっぱり、doingというのは、そんなに大事なことじゃないのかもしれない…と、ここで初めて思いました。

 

となると、確かに、

目の前で苦しんでいる人がいたとして、

その人の苦しみを本当に理解…という言葉が正しいのか、分かりませんが、

自分も一緒に、その苦しみを感じている時、

迂闊にdoingしようとは、思わないかも…ということも、思いました。

 

beingというのは、その苦しみを、一緒に味わう、味わうことに徹するということなのでしょうか。

 

そういえば、ゴータマさんも、

苦しんでいる人を見て、心を痛めていらっしゃったのでは…と、野僧は勝手に思っておりますが、その時、瞑想を選んでいらっしゃるので、こちらもdoingではなく、beingしてる…のかな?と、思いました。

瞑想とか、祈りとかも、beingなのでしょうか。

 

それに、実際に自分が助けてもらう立場になったことを想像して、たとえば病床で寝ていたとして、一緒にいる人が「doing」を重んじていたら、たしかにちょっと寂しい…?寂しいと言っていいのか、分かりませんが、

「何もしてくれなくていいよ」

と、思うだろうなぁー…………

と、思いました。

 

やっぱり、「being」というのは、凄いですね。

 

色々考えると、「doing」と「being」は、似ているようで、ちょっと違う、

doingは表面的なことですが、beingはもっと深い、次元の違う、幸せや励ましを意味している気がしました。

あと、「being」たるもの、その中心にあるものは、「こころ」とか「祈り」とか「想い」ではないかと、ふと思いました。

 

それに、「being」の方が大事ということを分かっていても、全く「doing」しないというのは、日常生活を送るという面においては、なかなかできないと思います。

 

あと、誰かの苦しみに寄り添う側の人間にも、きっとまた別の「苦しみ」や「困難」があって、「doing」にすがりたくなるところも、あるんじゃないかなと、思います。

 

なので、

「being」に徹しようとするのではなくて、

「doing」よりも「being」の方が大事なんだということを、

きちんと心で理解した上で、寄り添っていくというのが、

そういう心持ちでいるということが、

大事なんじゃないかな?というのが、

今回野僧が思ったことでございました。

 

それから、そういう意識を持っていると、ふとした時に自分の行動にブレーキをかけられるので、前よりもちょっとほうじ茶を準備する速度が遅くなりましたので、

これは、いざという時により慎重になれるという面でも、良い考え方なのではないかと、思ったりしました。

 

あと、戦争とか、難民問題とか、

世の中を見渡せばありとあらゆる問題が起こっていて、それらに対して自分ができることなんて、ほとんどない、「doing」できないことだらけだ…と、思います。

なので、「doing」より「being」の方が大事なんだよ、と言ってもらえるのは、先生の本意とはちょっとズレている部分があるかもしれませんが、救われるところがあるな…と思いました。

 

それに、菩提樹の下で瞑想をしているゴータマさんを拝見して、

何もできないと思って、勝手に孤独を感じて、勝手に寂しくなるのではなく、

 

ちょっと離れたところに座って、

その苦しみを、一緒に味わう

ということぐらいは、

(自己満足かもしれないですけれども!、)

できるかな?できたらいいなー

と、ちょっとだけ前向きに、考えられるようになりました。

 

ありがとうございました。

 

 

ということで、本日は最近の学びについて、つらつらと書きました。

 

何だか、問いが深すぎて

野僧が本当に探していたものにはかすりもしなかった、のかもしれない………なんて思い始めたら、深い深い霧の中に、ポツンと立っているような気分でございます。

 

恵みの雨が降ってきました。

 

ということで、

最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。!

 

合掌。

 

 

 

「たなばたの雲のはたてに思ふらん 心のあやも我にまさらじ」
たなばたの雲のもくもくを、「心の綾」と重ね合わせるという、清輔さん素敵です。。
百人一首では、「ながらへば またこのごろや しのばれん 憂しとみし世ぞ 今は恋しき」を、歌っていらっしゃる方だそうです。恋の句が半数近くある中で、じゃない方に属していらっしゃる句はとても好きです。!

 

 

編集後記:

こういう自分で勝手に考えを掘り下げていくスタイルで書く文章は、結末を考えずに自由に進んでいく分、論理展開としては結構はちゃめちゃなのかな?と、思います。

が、個人的には論理という名の線路の上をずーっと走っていくのが苦手…というか、論理というのが何なのか、いまいち良く分かっていないので、つい行き先の決まっていない海の中を泳ぎがちです。

海上の空を飛ぶ理論派なカモメが、進路を教えてくれたらいいのに。とも思いますが、

まぁそこまで美しい展開に拘らなくてもいいかな?ということで、書きました。

ありがとうございました。