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風と緑とあじさいと。―Vayu, Vana, Ajisai ca―

あじさい寺の非公式ブログです。

ふもと

 

こんにちは。

 

年明けのこの時期の貝多羅葉は、

何を書くべきか、

迷いますね。

 

やっぱりこう、これから始まる1年間の流れをどうしても意識してしまって、

もうちょっとあとであれを飛ばす

あそこではこれを飛ばす

みたいな感じで、

山を作ろうとしてしまいます。

 

となると、麓はどうしても低いもの、軽いものを飛ばしたくなってしまって

悩んでいました。

 

なんですが、ふと、

野僧的・文章論みたいなのを

ちょこっと考えてみたいなと思います。

 

まずはじめに、

なぜこの貝多羅葉を始めたいと思ったのか、ということを改めて思い出してみると

 

たしか、文章力をもうちょっと鍛えたかった…というのと、プライベートな感じで、練習できる場があったらいいな…と思っていたような気がします。

 

もうひとつは、始めた頃は世間がちょうど大きく変わっている時期で、旅人さんの人数も減っていたので、

何か発信しないと、

世界から忘れられるんじゃないかと

思っていた、というのも、確かありました。

 

とはいえ、2年続けてみて、最初の理由はほとんど忘れてしまいましたし、世界から忘れられてもそれはそれで、一生思い出せない記憶の中に建てられた、幻のお寺でもイイよねと思いますし、

貝多羅葉は、純粋に楽しいから書いているというのが良いなと、今は思います。

 

そして、書くときにできるだけ気をつけたいなと日々思っているのは、

人を傷つけない文章」というところです。

 

人を傷つけないというのは、

そればかりが先行すると却って空回りする場合も勿論ありそうですし、

人間にはそんなの無理だよ

と思うところもありますが、

 

毎回自分で推敲していると、

やっぱり時々、野僧の底に眠っている暴力性が、文章に滲み出ている時があって、

そういうのは、良くないなーと思って、反省しています。

 

でも、いろいろな文章を参考にしていると、書いた言葉で傷つける・傷つけないとか、そういう次元を超えた文章?というのが何かありそうだな、と最近思うようになりました。

 

例えば野僧は、本当に弱っている時には

ヴィクトール・E・フランクルさんや

クリシュナムルティさん

河合隼雄さん

 

などの本を読みます。

皆様の文章は、なぜか本当にしおしお、へなへなの時にもスッと心に溶け込んできて、読んでいると心が静かになります。

 

何となく、優しさとはまたちょっと違うような気がしていて、静かで、温かい光みたいな文章です。

 

内容としては、結構厳しいことを書いていらっしゃる時もありますが、

傷つけられたと思ったことは、不思議とありません………。(たぶん。)

 

そして、なぜ皆さんの文章を荒れた心は素直に受け止められるのか、ということを考えてみた時に

これらの文章が、「名前のない人」に向けて書いてあるような気がするからではないかと思いました。

 

なんというか、野僧が野僧であるから励ましたり、𠮟咤(?)したりしてくださっているのではなくて、

人間の存在を実存から肯定してくださっている感じ、人間そのものを励ましてくださっている感じがするからではないかと思います。

 

そして、

皆さんもまた、名前のない人として言葉を綴っていそうな、雰囲気があります。

 

キリスト教と、インド哲学という違う分野の皆さんですが、文章からは似た匂いを感じますね。

 

それに、自分を捨てている人が書く文章には、何だか、普遍的なものがあるなとも思いました。

 

でも、どうやったら皆さんのような温かい光みたいな文章が書けるのか、それはまだまだ遠い道でございます。

 

皆さま宗教者ですし、

宗教特有の救済感みたいなのも、文章から滲み出ているのでしょうか…??

 

凄いですね…。

 

あと、宗教者であり、心理学者?精神医学者?であるというところも、皆さんの共通点だと思います。それの影響もありますかね?

 

そういえば、

前にどなただったか、

(養老孟司さんかもしれません、前にどこかで書いたかもしれません)

駿さんの作品も、

生きることに対する絶対的な肯定がある

というふうに仰っていました。

 

なので、やっぱり御三方の文章も同じで、

傷つけるとか傷つけないとかではなく、

そもそもの存在を肯定する

駄目なところも勿論あるということを分かったうえで、肯定する

というのが大事なのかなと思いました。

 

よく、

宗教は、最後の砦

ということを仰っている方がいらっしゃいますが、

 

これは、本当にどうしようもない、全人類から嫌われている人、お前なんかいなくなってしまえばいいと、皆んなから言われているような人がいたとしても、

それでも見捨てないのが宗教だ、

というお話だと思います。

 

そう考えると、

生きることを肯定するというのは、

そりゃそうか…という、宗教ってそういうものだもんね…という、感じですね。

 

この点に関しては、宗教と一応関係を持っている身としては、

野僧にもできるかねぇ………

というような、

まだまだ意識することすら、難しい部類のことなんですけれども

 

でも、それが自分でできるかどうかは置いておいて、そういう考え方があるというのはやっぱり、安心感がありますし、救われるなと思いました。

 

というか、それは宗教者の役割ではなくて、神様、仏様の役割だとどこかに書いてあったような………気もします。

神様、仏様の存在があるからこそ、そういうことが可能なのでしょうか。

 

また、

以前、鈴木敏夫さんが、

「建前だけの世界を見てみたい」

ということを仰っていて、

 

最初に聞いたときは、

本音と建前を分けられる程、器用には生きられないなぁー

と、思っていたのですが、

 

これは実は、人間は基本的にはだらしがない生き物なんだという考え方から、

せめて建前だけでも頑張ればいいんじゃない?という、

意味なのかな?と、思いました。

 

なので、

どんなにどうしようもない人であっても、不器用な人であっても、

否定しないというのが、宗教の良いところであり、野僧自身も、宗教のそういうところは好き………かも………

というお話でした。

 

でも、以前

自分のメッセージを込めようと思って映画って作れないんですよね。

というふうに、駿さんが仰っていたので、

そういうのは自分で込めるのではなく、無意識のうちに表れてくるものなんじゃないかなと思います。

 

そして、駿さんの作品で言うと、

ほんの一瞬しか映らないシーンの植物でも、きちんと葉脈まで書き込まれていたり、

葉っぱに溜まった昨日の雨粒もそれはそれは綺麗に描いてあったり

小さな毛虫の日常を、映画にしてみたり

そういうところに表れているのかなと思います。

 

なので、「生きることに対する絶対的な肯定」というのは、心のどこかに入れておいて

 

そして、そこに尚且つ、ポップな要素も入れていけたら、というのが、この貝多羅葉では目標かなと思います。

 

さて、そういう視点で改めて考えてみると、

白井さんの食べ物のインスタグラムは

絶妙なバランスで綺麗に成り立っていると思うのですが、いかがでしょうか。

 

さすがです!!

 

野僧も、絶対的な肯定とまでいかなくても、何も否定しない、というところから始めてみるのがいいのではないかと、思いましたよ。

 

あと、またまた話はちょっと変わりますが、もうひとつ思ったことといたしまして、

「良い文章は、雫の音が聞こえる」

というのも、思いました。

 

なんだか、

一言一言選び抜かれて書かれている

というのが文章から伝わってきて、

この単語も、その人の頭の中に数多ある語彙の中から厳選されてここまで来た、

大量の雨水が時間が経って

綺麗な地下水になって

地下の炭鉱の隙間から

ポタッ

と雫が落ちるような感じで

書かれている文章が

いいなぁ

と思いました。

 

 

ということで、へっぽこ見習い小僧という立場ながら大変恐縮ではございますが、

野僧がいいなと思っている文章について、書いてみました。

 

個人的には、良いなと思っている文章に、できるだけ近づいていけたら良いな…と思いつつ、変なことをたくさん書いている自覚もあるので、真面目にやりなさい!と、いつか誰かから怒られるのではないかと、ちょっとヒヤヒヤしているところもあります。

 

それに、今回のような、一度立ち止まって振り返るデー(DAY)がこれまでにもたくさんあったにも関わらず、内容を全部忘れてしまっているので、

結構、結構矛盾したことばかり書いてしまっている………かもしれません。。。

 

 

それから、前回のお話を書いた後に、アクセス数が増えている…訳ではありませんが、一定数を持続している(?)傾向があったので、大変大変、何でだろう………と思っていろいろ分析しつつ、過去の貝多羅葉を見返していて思ったのですが、

同じ貝多羅葉内でも、既に内容を忘れている時ありますね!

ちょっと待って、これ初出しみたいな雰囲気だけど、同じこと冒頭にも書いてあるやん………というか、君それについてずっと話してたでしょう?と思って、

恐ろしかったんですけれども、

 

どうしましょう。。。。。!駿さん!

 

まあ、もし怒られたら、その時はサササッと隠れて息を潜めつつ、反省して、

またちょこちょこっと出てきて、前が葉っぱだったら今度は葉脈に沿って書くくらいの大きさで、

また細々と続けていけたらいいな………と思いつつ、

記憶力が無さすぎて怖いので、ちょっと考えてしまいますが、

 

しばらく貝多羅葉のお休みが始まったら、ああ、怒られたんだなと、

それか記憶力トレーニング期間にでも入ったのかな?と、

思っていただけたらなと思います。

 

改めまして、

いつも温かく見守ってくださり、誠にありがとうございます。

 

それから(!)

先日、「貝多羅葉読んでます」と仰ってくださりました、旅人さんがいらっしゃったそうで、

大変大変、ありがとうございます!!

当時はお寺に居らず、申し訳ございませんでした。💦

その後、空豆和尚から、伺いまして、大変嬉しかったです。!

ありがとうございました。!

 

それでは

最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。

 

合掌。

 

 

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冬というより、氷が好きなんだろうなと思う日々です。

 

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追記です。

 

これまでの一度立ち止まって振り返るデー(DAY)のことは忘れたと、書きましたが、「すやすや」の時にチラッと触れた

「すべては静かで、平和でした。」

というのは、よく覚えています。

 

これ、絶対このままずっと静かで、平和な訳ないぞ?笑

と、思わせてくれる、それまでの奇想天外な物語展開があって、

だからこそこの一文が、なんだか凄く滑稽に見えたのでした。

 それか、あれだけ色々なことがあって、みんなで大騒ぎしても、結局は全部、空騒ぎに過ぎないということで

「すべては静かで、平和だった」と言えてしまう、その枠組みに収まってしまう、という意味にも取れるような、気もします。

 深いですね……。

 やっぱり、変なことをたくさん書いても、最後にはそうやって言い切れるような、

平和な葉っぱでありたいなとしみじみ思ったのでした……。

 

(葉っぱの流れを見て追記内容を少々修正いたしました……。) 

 

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梅の花が咲きました。