こんにちは。
年明けのこの時期の貝多羅葉は、
何を書くべきか、
迷いますね。
やっぱりこう、これから始まる1年間の流れをどうしても意識して
もうちょっとあとであれを飛ばす
あそこではこれを飛ばす
みたいな感じで、
山を作ろうとしてしまいます。
となると、麓はどうしても低いもの、
悩んでいました。
なんですが、ふと、
野僧的・文章論みたいなのを
ちょこっと考えてみたいなと思います。
まずはじめに、
なぜこの貝多羅葉を始めたいと思ったのか、
たしか、文章力をもうちょっと鍛えたかった…というのと、
もうひとつは、
何か発信しないと、
世界から忘れられるんじゃないかと
思っていた、というのも、確かありました。
とはいえ、2年続けてみて、
貝多羅葉は、
そして、
「
人を傷つけないというのは、
そればかりが先行すると却って空回りする場合も勿論ありそうです
人間にはそんなの無理だよ
と思うところもありますが、
毎回自分で推敲していると、
やっぱり時々、野僧の底に眠っている暴力性が、文章に滲み出ている時があって、
そういうのは、良くないなーと思って、反省しています。
でも、いろいろな文章を参考にしていると、書いた言葉で傷つける・傷つけないとか、
例えば野僧は、本当に弱っている時には
ヴィクトール・E・フランクルさんや
河合隼雄さん
などの本を読みます。
皆様の文章は、なぜか本当にしおしお、
何となく、優しさとはまたちょっと違うような気がしていて、
内容としては、結構厳しいことを書いていらっしゃる時もありますが、
傷つけられたと思ったことは、不思議とありません………。(たぶん。)
そして、
これらの文章が、「名前のない人」
なんというか、
人間の存在を実存から肯定してくださっている感じ、
そして、
皆さんもまた、名前のない人として言葉を綴っていそうな、
キリスト教と、インド哲学という違う分野の皆さんですが、
それに、自分を捨てている人が書く文章には、何だか、
でも、
皆さま宗教者ですし、
宗教特有の救済感みたいなのも、
凄いですね…。
あと、宗教者であり、心理学者?精神医学者?
そういえば、
前にどなただったか、
(養老孟司さんかもしれません、
駿さんの作品も、
生きることに対する絶対的な肯定がある
というふうに仰っていました。
なので、やっぱり御三方の文章も同じで、
傷つけるとか傷つけないとかではなく、
そもそもの存在を肯定する
駄目なところも勿論あるということを分かったうえで、肯定する
というのが大事なのかなと思いました。
よく、
宗教は、最後の砦
ということを仰っている方がいらっしゃいますが、
これは、本当にどうしようもない、全人類から嫌われている人、
それでも見捨てないのが宗教だ、
というお話だと思います。
そう考えると、
生きることを肯定するというのは、
そりゃそうか…という、宗教ってそういうものだもんね…という、
この点に関しては、宗教と一応関係を持っている身としては、
野僧にもできるかねぇ………
というような、
まだまだ意識することすら、難しい部類のことなんですけれども
でも、それが自分でできるかどうかは置いておいて、
というか、それは宗教者の役割ではなくて、神様、仏様の役割だとどこかに書いてあったような………気もします。
神様、仏様の存在があるからこそ、そういうことが可能なのでしょうか。
また、
以前、鈴木敏夫さんが、
「建前だけの世界を見てみたい」
ということを仰っていて、
最初に聞いたときは、
本音と建前を分けられる程、器用には生きられないなぁー
と、思っていたのですが、
これは実は、人間は基本的にはだらしがない生き物なんだという考え方から、
せめて建前だけでも頑張ればいいんじゃない?という、
意味なのかな?と、思いました。
なので、
どんなにどうしようもない人であっても、不器用な人であっても、
否定しないというのが、宗教の良いところであり、野僧自身も、
というお話でした。
でも、以前
「自分のメッセージを込めようと思って映画って作れないんですよね。」
というふうに、駿さんが仰っていたので、
そういうのは自分で込めるのではなく、
そして、駿さんの作品で言うと、
ほんの一瞬しか映らないシーンの植物でも、
葉っぱに溜まった昨日の雨粒もそれはそれは綺麗に描いてあったり
小さな毛虫の日常を、映画にしてみたり
そういうところに表れているのかなと思います。
なので、「生きることに対する絶対的な肯定」というのは、
そして、そこに尚且つ、ポップな要素も入れていけたら、
さて、そういう視点で改めて考えてみると、
白井さんの食べ物のインスタグラムは
絶妙なバランスで綺麗に成り立っていると思うのですが、
さすがです!!
野僧も、絶対的な肯定とまでいかなくても、何も否定しない、
あと、またまた話はちょっと変わりますが、
「良い文章は、雫の音が聞こえる」
というのも、思いました。
なんだか、
一言一言選び抜かれて書かれている
というのが文章から伝わってきて、
この単語も、
大量の雨水が時間が経って
綺麗な地下水になって
地下の炭鉱の隙間から
ポタッ
と雫が落ちるような感じで
書かれている文章が
いいなぁ
と思いました。
ということで、
野僧がいいなと思っている文章について、書いてみました。
個人的には、良いなと思っている文章に、
それに、今回のような、一度立ち止まって振り返るデー(DAY)がこれまでにもたくさんあったにも関わらず、内容を全部忘れてしまっているので、
結構、結構矛盾したことばかり書いてしまっている………かもしれません。。。
それから、前回のお話を書いた後に、アクセス数が増えている…訳ではありませんが、一定数を持続している(?)傾向があったので、大変大変、何でだろう………と思っていろいろ分析しつつ、過去の貝多羅葉を見返していて思ったのですが、
同じ貝多羅葉内でも、既に内容を忘れている時ありますね!
ちょっと待って、これ初出しみたいな雰囲気だけど、同じこと冒頭にも書いてあるやん………というか、君それについてずっと話してたでしょう?と思って、
恐ろしかったんですけれども、
どうしましょう。。。。。!駿さん!
まあ、もし怒られたら、その時はサササッと隠れて息を潜めつつ、
またちょこちょこっと出てきて、
また細々と続けていけたらいいな………と思いつつ、
記憶力が無さすぎて怖いので、ちょっと考えてしまいますが、
しばらく貝多羅葉のお休みが始まったら、ああ、怒られたんだなと、
それか記憶力トレーニング期間にでも入ったのかな?と、
思っていただけたらなと思います。
改めまして、
いつも温かく見守ってくださり、誠にありがとうございます。
それから(!)
先日、「貝多羅葉読んでます」と仰ってくださりました、旅人さんがいらっしゃったそうで、
大変大変、ありがとうございます!!
当時はお寺に居らず、申し訳ございませんでした。💦
その後、空豆和尚から、伺いまして、大変嬉しかったです。!
ありがとうございました。!
それでは
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。
合掌。
ーーーーーーーーーーーーーー
追記です。
これまでの一度立ち止まって振り返るデー(DAY)のことは忘れたと、書きましたが、「すやすや」の時にチラッと触れた
「すべては静かで、平和でした。」
というのは、よく覚えています。
これ、絶対このままずっと静かで、平和な訳ないぞ?笑
と、思わせてくれる、それまでの奇想天外な物語展開があって、
だからこそこの一文が、なんだか凄く滑稽に見えたのでした。
それか、あれだけ色々なことがあって、みんなで大騒ぎしても、結局は全部、空騒ぎに過ぎないということで
「すべては静かで、平和だった」と言えてしまう、その枠組みに収まってしまう、という意味にも取れるような、気もします。
深いですね……。
やっぱり、変なことをたくさん書いても、最後にはそうやって言い切れるような、
平和な葉っぱでありたいなとしみじみ思ったのでした……。
(葉っぱの流れを見て追記内容を少々修正いたしました……。)