こんにちは。
綿あめみたいな雲の隙間に、青空が滲む季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
さて、前回は本のご紹介をさせていただきましたが、
本と一緒に、河合隼雄さんの『児童文学の世界』(1994年, 岩波書店)も拝読するというのが、お決まりのパターンです。
河合さんのお話によると、
長編ファンタジーは、日本よりも、西洋の方がよく書けているのだそうです。
それで、
日本人は、現実とファンタジーの世界の境界が曖昧で、曖昧だからこそ、ファンタジーが弱くなってしまう、
西洋は、現実とファンタジーの世界の境界がはっきりしているからこそ、充実したファンタジーを描くことができる、というようなことを、仰っていました。
なるほどー!
なんとなく、真ん中に仕切りのある、ひとつの箱があって、
左側にお水、右側にお醬油を入れて、
西洋は、その境界がしっかりしているからこそ、
お水は透明なまま、お醬油は、しっかり濃くて、茶色いままです。
一方日本は、その境界が曖昧で、お互いに混ざってしまうからこそ、
全体的に淡い茶色になってしまうという、
そんなイメージを思い浮かべました。
河合さんは、ケルトの本でも、
「ヨーロッパやアメリカでパリパリっと生きている人と違い、日本人は心が少し無意識の方に広がっているところがある。」(p.183)
と、仰っていたので、
左側が、パリパリっと、右側はフワフワっと、している感じ、でしょうか。
あとこれは、キリスト教の影響も、あったりするのだろうか?と思ったりしました。
野僧もまた、
幼少期は結構、噓ばかりついていたようなところがあって、
今振り返ると、あれは、現実と空想の境界が自分でもよく分かっていなかったんだろうなと、改めて、思いました。
そういうところは、今でもちょっとあって、
思い出の正統性にあんまり自信が無かったりします。
個人的には、これはもう仕方ないと、開き直ってしまっていますね。
瞑想などで、「今、起きていること」に目を向ける訓練を続けたら、この境界線もくっきりしてきたり、するのでしょうか?
気長に頑張りましょう。
それから、児童文学を読んでいて思うのは、
やっぱり発想がすっとぼけているというか、ぶっ飛んでいるというか、
「常識」というものを軽やかに超えていく痛快さ、
みたいなのがあるんじゃないかと思っておりまして、
そういう意味で、参考にしたいな~、いいな~と思ったのは、
ロアルド・ダールさんです。
「アッホ夫婦」とか、とっても面白くて、作中で出てくるミミズのスパゲッティとか、
実際に出されたらめちゃくちゃ困りますけど、面白いですよね。
改めて考えると、「チョコレート風呂」や「ヒルクライム」とかも、ひそかに影響を受けていたのかもしれません。
あと、さりげなく世の中に対する批判とか、皮肉、風刺みたいなものを書けちゃうのも、
やっぱりかっこいいな~と思います!
ということで、
本日は名作of名作の児童文学の、つづき編を書きました。
以前、駿さんが、「児童文学は、やり直しがきく話」と仰っていたのですが、
本当にそうだと思います。
児童文学の世界の優しさに、助けていただきつつ、
これからもたくさん読んでいきたいなと思ったのでした。☆
それでは、
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。
合掌。
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追記です。
突然ですが、先日は、野僧のユージン(友人)、モモちゃんの、お誕生日でした!
モモちゃん、お誕生日おめでとう!!(笑)
モモちゃんは、容姿端麗、頭脳明晰、語学堪能のワンダーウーマンで、
アベンジャーズにいてもおかしくないと、野僧は思っております。
そんなモモちゃんですが、以前何と、手編みの靴下をプレゼントしてくれたことがありました。
それはこちらです。!
ぽん。!
す、凄すぎる………!
しかもこちら、「あじさい」という名前の色の毛糸で塗ってくれたそうで、
温かいお心遣い、嬉しいですね。
手編みの靴下をプレゼントしてくれるという、
児童文学みたいなエピソードを一緒に体験出来て、とっても嬉しかったのでした。
モモちゃんは、「雫の音が聞こえる文章」を書く文章力の持ち主で、
素敵なお手紙も、泉のように滴っておりました。
ユージン・モモ、ありがとう☻