こんにちは。
昨年、怒りを投球に例えるという試みを行いましたが、
これは、怒りに限らず、「善」も、あり得るなと思いました。
時々、
はるか雲の上のほうにいらっしゃる方(社会的な地位とかに限らず、日常の行いの面で)
とお会いすることがありますが、
そういう方々の、
「善くあろうとすることにおいて、躊躇いがない」
ところに、いつも衝撃を受けます。
こう、スカーッと、爽やかな風が吹いて、
ひえええええ
すごぉぉぉぉぉい………………
と、なることがあります。
あれはいったい、何なんでしょう。
個人的には、慈善活動とか、善とか、
大事だよ、と言われる機会が多いものほど、
若かりし頃は、ケッと思ってしまうタイプでした。
真っ白な半紙に、墨汁を垂らしてやりたいと思っておりました。
(ごめんなさい)
なんですが、歳をとってくると、
そういうふうに、
「善いこと」に対して、
恥ずかしさを抱く、そういう幼さ………?(幼いのでしょうか?)を自覚しつつ、
あとはやっぱり、「偽善」と言われることを恐れていたところもありますよね。
でも、クリシュナムルティさんが、
偽善とかを気にしているうちは、まだまだで、
「人は、行いによって尊いのである。」
というふうに仰っていたのを読んだときに、
そうか………
と、思って、それまでの悩みがストンと落ちたような、感覚を受けました。
何だかやっぱり、そこをきちんと知っていて、
ポーンと行動に移せちゃう人、
凄いですね~(しみじみ)
それから、いろいろ考えて、少しずつ実践に移そうと思ってはいても、
善く生きようとすることは、どこまで良いことなんだろう?
という疑問も、湧いてきます。
心の底から善いことができたら、どんなにいいだろうか。
と思ってしまうのもまた、
欲望なんだろうな~という感じです。
それに、いくら善くありたいと思っていても、
やっぱりどこかで、限界を感じ始めている、野僧でございます……。
でも、対象が人間であるから、いろいろと悩んでしまう訳で、そう考えると、
「木を植える」というのは、善いことをしたいという「思い」と、木を植えるという「行為」が一緒に成り立っていて、しかも誰も傷つけなくて、上下関係もなくて、
地球にも優しくて、独りで静かに行えば、心も整って、
めちゃくちゃいいな。
と、思いました。
以前、ちょっと落ち込んでいた時にたまたま木を植えたことがあって、
あの冬の澄んだ青空と、乾いた風と、落ち着いた心持は、
良い時間だったなと、思います。
ありがとうございました。
ということで、
本日は「善」について、思ったことをつらつらと書きました。
善について、またいろいろな本を読んで、何か形になりそうだったら
葉っぱにしたいなと思います。
それでは
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。
合掌。