こんばんは。🌝
冬の息吹を感じる頃となりましたが、お元気でお過ごしでしょうか。
本日は、夜の音楽鑑賞会を行いました。
冬の時期になると、夜の音楽鑑賞会は、なかなかの頻度で開催されております。
リーン、リーンという鈴虫の鳴き声と、
名前も知らない星々と、
森の静寂、爽やかな夜風、
人間であることを忘れて、 ひとり静かに、ぼけーっと夜空を見つめるこの時間が、野僧はとっても好きなんですね。
あれは何の星なんだろう……と、遠くの星に、思いを馳せております。
それで、こういう時は、もちろんスピッツも一緒です。
あの星は、スピッツ聴けなくて可哀想…!と思いながら、ちょこっと優越感に浸りつつ、独り占めしている次第です。笑
でも、 夜の音楽鑑賞会って、実はちょっと危険かなぁと思うこともありまして、 それこそ、外で聞いていると、たとえば猪や鹿が近くにいても、気がつかないかもしれないですし、ヘビに狙われていても、近くにハガチがいても、気がつかないかもしれません。
(「ハガチ」って、房州弁なんですね。知らなかったです。)
気がついたときにはもう遅くて、背後から何かに襲われて、
野僧の明日はもうないかもしれない。
なんて思い始めると、急に背中がそわそわして、つい後ろを振り返ってみたり、しております。
なんですが、野僧はこの、夜の森の中で感じる「生き物としての恐怖」、
動物も、虫も、花も、人も、 皆んな平等に、
「常に死と隣り合わせ」というのが何だか、
不思議と嬉しい………というと、ちょっと大袈裟かもしれませんが、
やっぱり、生きとし生けるものは皆平等であってほしいなと、
野僧もまた、「そっち」に混ざりたくなることがね、あるんですねー。
でも、『生き物』回で書きました、「嫌悪感」のお話と同様に、
「恐怖心」も、慣れるものなのだそうです。
野僧もまた、この夜の森に対する「恐怖心」に慣れてきて、
この感情を、飼い慣らしている自分がいます。
危ないことはわかっているのだけれど、好奇心が勝つ!という、
なんかちょっと、イケないことをしている時の、背徳感って、癖になってしまいますが、
夜の森はやっぱり、危ないですね。
気を付けましょう………。
ところで、最近読みました、河合隼雄さんの本に書いてありました、「境界」のお話が、とても面白かったです。
「人間のこの世の生は、それよりはるかに長い前世と、それよりはるかに長い後世との間の、僅かの『境界』であるとさえ言うことができる。」(193)
と、書いてありましたが、
そう考えると、
「野僧が野僧として、今この星を眺めていることの意味」みたいなものを、つい考えてしまいますが、
意味なんてないかー。
とも、思いました。
それから、「境界」は、「空想」とはまたちょっと別物で、
「空想」は、意思を持って自分で世界を描きに行くことだと思うけど、
「境界」は、自分で描いた世界を見に行くのではなくて、違う世界を、無意識に生きてしまうというか、気づいたら、違う世界を生きてしまっていたというか、
そういう感じなのかな?と、本を読んでいてぼんやりと思いました。
「見えない世界」って、何なんやろなと思いながら、河合隼雄さんの本をいつも楽しく拝読しております。
ありがとうございました。🌌
ということで、本日は夜の森でぼんやりと考えたことを書きました。
ついつい夜遅くなってしまいましたが、
明日の朝は、水平線からお日さま昇りませんように!
と祈りながら、眠りたいと思います。🌜
(☝寝坊すること前提)
それでは、
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。
合掌。